自然と人の平和的な繋がりを創造し、より多くの幸せに貢献する
地元の自然をこよなく愛するガイドたち、プロスノーボーダーや漁師など、様々なフィールドで自然と共に活動しているスタッフが、富士川ラフティングや朝霧マウンテンバイクなどのツアーを通して、自然の中に身を置き、遊び、感じ、楽しむことにより、その素晴らしさを共に分かち合える会社を目指しています。
代表 佐野 文洋
さの ふみひろ
1972年4月13日
静岡県富士郡芝川町 出身
学歴:
富士郡芝川町立内房小学校 卒業
富士郡芝川町立芝川中学校 卒業
日本大学三島高等学校 卒業
静岡県立農林短期大学校林業課程 卒業
職歴:
ウインドサーファー
レスキューインストラクター
桜えび漁船諏訪丸船長
林業
公職
グローバル化からローカル化へ、物質至上主義から環境との共生へと、世の中の潮流は変化し、21世紀型の新しい価値観へとシフトを続けています。
この時代のニーズを富士山のふもとから見据えてきた当社は森林という地球の財産を背負った林業、アウトドアツアーを主とする観光業、駿河湾において資源管理の徹底された環境下で行う桜えび漁、地元の安全な野菜を使ったレストランという4つの部門から成る小さな会社です。これらは、どれ一つ自然から切り離されておらず、自然からの大いなる恩恵によって成り立っている業態です。
山林部門では、自然の大元である森をフィールドとして、手入れが行き届かずに荒廃した森の再生整備をはかることにより、森の持つ本来の機能を高め、木材を生産しています。健全な森に降り注いだ雨が、しっかりと時間をかけ濾過され栄養を得て、レストランで提供する野菜やお米を育みます。さらに富士川に注いだ水によって、ラフティングやSUPなどのアウトドアツアーを提供させて頂いています。川の水は最終的に駿河湾にたどり着き、多くの生物に森で得たミネラルを届けます。水は役割を終え、水蒸気となり再び循環を始めます。森から農。川から海という水の辿る流域の始まりから終りまでの各フィールドで、自然と人との労働を通じての豊穣な関わりを大切に、第一次産業をトータル且つ有機的に連携させ出来上がったのが当社の形です。
私たちの会社は、『自然と人の平和的な繋がりを創造し、より多くの幸せに貢献する』を企業理念として掲げ、地元の豊かなリソースを再認識し、伝え、地元に根ざし、そこに人が集まることで地元の人と自然に還元される。そのような自然と人を優しくつなぐ21世紀型のビジネスモデルを体現し続けたいと考えております。
高校2年生の時にプロウインドサーファーになる事を決意し、在学中から遠征費と道具代を稼ぐため、0時から翌朝7時まで佐川急便の倉庫で仕分けのアルバイトに励み、学校の時間以外、日がある間はひたすら練習に明け暮れる。卒業後、御前崎に移り22時から9時までの牛丼屋のシフトに入る。波があれば10時から日没まで練習し、なければ実家の林業を手伝いながら体を鍛える。1992年アメリカ合衆国オレゴン州で行われたアマチュア世界選手権で4位、ジャパンサーキット与論カップで日本人最高位を獲得し、スポンサーがつき始める。翌年、ウインドサーフィンの聖地ハワイ州マウイ島ノースショアに軸足を移し、冬は御前崎に戻り練習と大会、林業に明け暮れる。成績も徐々に上がり、年々契約金と賞金が増え、1996年カリブ海の小国アルーバで念願のワールドカップ初参戦を果たす。1997年12月までの2年間は専門誌に<佐野文洋のワールドカップ参戦記>を連載しながら、北米、カリブ海、中米、オセアニア、ハワイ、ヨーロッパなど世界各地の大会をアジア人として唯一転戦する。最高位、ワールドカップドミニカンレパブリック17位。
ウインドサーフィンに没頭すればするほど極限の状況に追い込まれる機会が増え、自然の持つ圧倒的なパワーに畏敬の念を抱くようになり、また旅先で出会う美しい自然の風景にこころが癒され、いつしかそのスポーツそのものよりも、自然に対する感謝の気持ちの方が強くなり、海と自分だけの関わりよりも、自分が感じた想いを沢山の人達と共有出来たらと思うようになる。An environmental problem という単語が行く先々で耳に入るようになったのもこの頃からだった。佐野 文洋 ちょうどそんなタイミングで参加した、Gorge Games という大会があった。この大会はワールドカップではなく、Timberland というアウトドアシューズの会社が冠スポンサーとなり、オレゴン州フットリバーという芝川町ほどの小さな町を舞台に行われた総合アウトドアスポーツコンテストだった。当時、お世話になっていたスポンサーの旅行会社にオレゴンのツアーを売り出す計画があり、専門誌との共同企画で僕がこの大会に参加し、ウインドサーフィンを通してその魅力を読者に伝えマーケティングするという目的だった。
自分の出場種目のウインドサーフィンはコロンビア川という川を26マイル遡るとか、とにかくスケールが大きくて心底楽しかった。出番がない日は、カメラマンについてマウンテンバイク、スノーボード、カイトサーフィン、トレイルランニング、パラグライダー、カヤック、ラフティングなど同時多発的に行われていた、10種目の動力を使わない他のアウトドアスポーツの観戦を楽しんだ。全ての種目に賞金があり、それぞれのプロやオリンピックのゴールドメダリストまで参加していた。夜はみんな中央公園に集まりライブを楽しみながらビールを飲み、それぞれが持つ熱い想いを語り合った。いつしか後ろにそびえるマウントフットが富士山と、目の前を流れるコロンビア川が富士川とかぶり、そこで今みたいに自然やアウトドアスポーツが好きな仲間が笑っている情景が頭をよぎった。
“いつか富士山の周りでこんなイベントをやりたい!”
その時そう思ったのがNATURAL ACTIONの原点だった。
1998年7月、“自然と人の平和的な繋がりを創造し、より多くの人の幸せに貢献する”というミッションを掲げ、富士川ラフティングを中心に、マウンテンバイク、キャニオニング、カヌーなどで、都会で生活する自然とあまり接点のない人達を気軽にダイナミックな自然の中に案内する。という仕事を始めた。
ラフティングのフィールドである急流河川は、自然のフィールドの中でも最もリスクの高い場所であり、そこで起こるかもしれない事故のリスクを最小限にし、万が一事故が起こってしまったとき、助けられる確率を最大限にするため、世界で最も権威あるアメリカ合衆国のRESCUE3社の訓練プログラムを取り入れ、5年間の修行期間を経て2002年IRIA(国際レスキューインストラクターズアソシエーション)公認のスイフトウォーターレスキューインストラクターとなる。
昭和30年代後半に祖父が造り、蒲原の親戚が操業していた桜えび漁船諏訪丸が縁あり2002年に戻ってきた。後継者という事で、現在船長として春、秋の漁に従事している。
アウトドア、レスキュー、桜えび漁がオフシーズンとなる冬は木が水を吸い上げない時期と重なり、会社の屋台骨である林業が1年で最も人手が必要な時期となる。間伐部隊として山に入り、素材生産だけではなく、国産木材が製品として持続可能に流通する仕組みを模索している。
富士宮少年警察協助員
静岡県消防学校非常勤講師